空に連なる鳥たちのなぞ:国芳にパトロンがいた
雲に交わりながら連なって飛ぶ鳥たち。
上から1羽 6羽 4羽 3羽。
西暦に変えると、、1643年???🙄
えぇ〜😏😒江戸時代に元号ではなく
西暦を使っていたっけ???
と、ツッコミが入りそうですが😆
国芳は、西暦を知っていたのだろうか?
西洋の絵画にも興味関心がかなりあったことが、表れているのですが、鎖国時代、、
誰かからの情報があったのか??
国芳にはパトロンがいたようですが
もしや、その人物が詳しかったとか??
そこまでの情報はありません。
誰かからの情報なのか
西洋(オランダ)の人で詳しい人、知っている
人物がいたのか??
ちょっとここで深掘りするのは
ストップ🫷しておいて、、、
1643年。
歴史的史実を調べると🔎
「田畑永代売買禁止令」
(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)
が出されたと言われる年。
さらに史実を見ていくと、
後ろにある「永代橋」は、
徳川5代目将軍 綱吉(在位1680年〜1709年)
綱吉の生誕50年のお祝いのために、
1698年に
作られた橋とされています。
(綱吉生没年:1646年〜1709年)
それから、1807年。
永代橋の崩落事故があり、
1000人?2000人?以上の方が
亡くなった歴史もあります。
船橋屋さんのお菓子のレシピ本の挿絵
(1841年:享保12年)
写実通りのようです。
永代橋と言えば、
この人がたくさん描いています?
歌川広重 永代橋全図
(1818-1842 文化〜天保期)
歌川広重のたくさんの作品
2004年:令和6年
国芳の生没年:1798年〜1861年。
1861年と言えば、
別の作品にも「1861」
という数字が出てくるのです。
いくら何でも、こんなん偶然と言えるのか?
表向きは、三越が貸し出した、傘の通し番号。
「東都御厩川河岸の図」
(とうとおうまがわがしのず)です。
これも都市伝説。
「自らの死期を知っていたのか」
ということも絡めて考えると、、、まさか😳
国芳もこの「永代橋崩落事故」当時は、
幼かったですが、
九つならば、
かなり悲惨な事故だったのを知っていたでしょうね。小学3年生くらいですもんね。
それから、先ほど挙げた、
1843年の史実
「田畑永代売買禁止令」
(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)
「生かさぬよう、殺さぬよう」
「慶安の御触書」
1649年(慶安2年)に出された史実があります。
農民が財を持ち、
力を持ったり豊かにさせないため
年貢を納めてもらうには
死んでもらっても困るから、、、の意味。
農民は、生活の苦しみのため、
生活費の足しにするため、
しじみ売りをして生活していた
というのがあります。
この漁師さんたちは、農民でもある可能性はないでしょうか。
また、漁師さんが燃やしているのは、
船の底の腐敗を防ぐための作業。
と言われています。
絵の中では、もくもくと立ち上がる煙。
インパクトがありますよね。
画風としてもカッコいい。
でも、これが、もしかしたら、、、
お線香を焚くイメージだったら??
1000人以上の亡くなられた方々へ、
これくらいの大きな規模で、、、。
亡くなられた方々への「ご供養」の意味が
あったりはしないでしょうか?
作品の中では、
農民の生活苦・苦悩を表し、
また崩落事故で悲惨な亡くなり方をした、
大勢の方への
「ご供養」の意味があったのではないか?
西暦を表しているのだとしたら、、、
1861年の自らの死期を、
知っていたのだとしたら?
書いていて、たった今、感じたこと。
隅田川、、って国吉の作品の中では、実は
「三途の川」を
表したものだったのではないか?
以下の作品:安藤広重「東都名所永代橋全図」
また、永代橋の向こうに見える、
佃のこれらのたくさんの舟は、、
これに乗り、あの世へと旅立つ為の、
待機中の舟。を表現したのでは?
極楽浄土へ行けますように、
成仏を願う作品の意味も、あったんじゃないでしょうか?
とお蔦は推測いたします。
もっと深く突き詰めて推測していこうと
思います。
引用・参考文献
イサオ俊彦 もっと知りたい 歌川国芳
生涯と作品 改訂版
2022年9月30日
現代の永代橋のライトアップも出て来ます。
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